初めての土地、
思いがけない役職、
未経験者の事柄の連続、
それは私が当初考えていた修道生活とは、
あまりにもかけはなれていて、
私はいつの間なか、
” くれない族 ” になっていました。
「あいさつしてくれない」
こんな苦労しているのに
「ねぎらってくれない」
「わかってくれない」
自信を喪失し、
修道院を出ようかとまで思いつめた
私に、
一人のい宣教師が一つの短い英語の
詩を、
渡してくれました。
その詩の冒頭の一行、
それが「置かれたところで咲きなさい」
という言葉だったのです。
岡山という土地に置かれ、
学長という風当りの強い立場に置かれ
四苦八苦している私を見るに見かねて、
くださったのでしょう。
私はかわりました。
そうだ、
置かれた場に不平不満を持ち、
他人の出方で幸せになったり
不幸になったりしては、
私は環境の奴隷でしかない。
人間と生まれたからには、
どんなところに置かれても、
そこで環境の主人となり自分の花を
咲かせよう、
と決心することができました。
それは「私が変わる」ことによって
のみ
可能でした。
いただいた詩は、
「置かれたところで咲きなさい」の
後に続けて、
こう書かれていました。
「咲くということは、
仕方ないと諦めることではありません。
それは自分が笑顔で幸せに生き、
周囲の人々も幸せにすることによって、
神が、あなたを
ここにお植えになったのは間違いで
なかったと
証明することなのです」
私は、かつて
” くれない族 ” の自分と
訣別(けつべつ)しました。
私から先に学生にあいさつし、
ほほえみかけ、
お礼をいう人になったのです。
そうしたら不思議なことに、
教職員も学生も皆、
明るくなり優しくなってくれました。
「置かれたところで咲く」
この生き方は、
私だけでなく学生、卒業生たちにも
波及しました。
結婚しても、就職しても、子育てを
しても、
「こんなはずじゃなかった」と思う
ことが
次から次に出てきます。
そんな時にも、その状況の中で
「咲く」努力をしてほしいのです。
どうしても咲かない時もあります。
雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、
そんな時には無理に咲かなくてもいい。
その代わりに、
根を下へ下へと降ろして、
根を張るのです。
次に咲く花がより大きく、
美しいものとなるために、
渡辺 和子 ノートルダム清心学園理事長